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2024.08.04(日)

イベント

『ちゃわんやのはなし-四百年の旅人-』舞台挨拶レポート!

平素よりシアター・エンヤをご愛顧いただき誠にありがとうございます。

8月3日(土)に実施しましたドキュメンタリー映画『ちゃわんやのはなし-四百年の旅人-』舞台挨拶のレポートです。
当日は、本作へご出演の十五代 沈壽官さんにご登壇いただきました。なんと、満員御礼となりました!

ちゃわんやのはなし-四百年の旅人-』作品紹介
遡ること420年前、豊臣秀吉の二度目の朝鮮出兵の帰国の際に、主に西日本の大名たちは朝鮮人陶工を日本に連れ帰った。薩摩焼、萩焼、上野焼などは朝鮮をルーツに持ち、今もなお伝統を受け継いでいる。
薩摩の地では、島津家が彼らを厚く庇護をして苗代川という地に住まわせた。その中に沈壽官家の初代となる沈当吉がいた。以来、沈壽官家は研磨を重ね多彩な陶技を尽くした名品の数々を世に送り出し、世界中に “SATSUMA”の名が広がった。幼少期に経験した言われなき偏見や差別の中で、日本人の定義とは何かと自身のアイデンティティに悩んだ十五代沈壽官を救った司馬遼太郎の至宝の言葉。その十五代沈壽官が修行時代を過ごした韓国・利川にあるあるキムチ甕工房の家族は、十五代から学んだ伝統を守る意義を語る。沈壽官家の薩摩焼四百年祭への願い。そして、十二代渡仁が父から受け継いだ果たすべき使命。​十五代坂倉新兵衛が語る父との記憶と次の世代への想いとは。
朝鮮をルーツに持つ陶工たち、その周囲の人々の話が交差し、いま見つめ直すべき日本と韓国の陶芸文化の交わりの歴史、そして伝統の継承とは何かが浮かび上がる。

沈壽官(ちんじゅかん)家とは
薩摩焼の陶芸家の名跡。鹿児島県日置市東市来町美山(旧・苗代川)に窯元を置く。沈家が、初めて日本の土を踏んだのは慶長3年(1598年)のこと。朝鮮半島からはるか海を越え、薩摩(鹿児島)の地に連れてこられた陶工たちは、島津藩の命を受け、苦難の末に薩摩焼を創成。その中心的な役割を果たした一人が、初代 沈当吉であった。以来、沈壽官窯は、島津家の厚い庇護のもと研鑽を重ね、多彩な陶技を尽くした名品の数々を次々に世に送り出す。特にその品格と美しさから、島津藩の調度品や朝廷への献上品として格別に珍重されたのが、「白もん」と呼ばれる白薩摩であった。1873年には、第十二代がウィーン万国博覧会に大花瓶を出品。日本の陶磁器を代表する華麗な芸術品として絶賛を博す。2019年6月に亡くなった十四代は、司馬遼太郎と親交があり、司馬の小説「故郷忘じがたく候」(1968年刊)に主人公として登場。1989年に国内初の大韓民国名誉総領事に就任するなど、日韓の文化交流に力を尽くしたことでも知られている。2010年には長年の日韓文化交流活動が評価され、旭日小綬章を受章。1999年に現在の十五代が沈壽官を襲名し、420年にもわたる一子相伝の技を守り、沈家の歴史が紡がれている。

唐津と言えば「唐津焼」。劇中には、佐賀県立名護屋城博物館も登場し、唐津にもゆかりのある作品となっています。
沈さんのお父様である十四代 沈壽官さんがモデルとなった小説「故郷忘じがたく候」の著者である司馬遼太郎が生誕100年を迎えるにあたり、本作を製作した会社から、今回のドキュメンタリーを撮りたいという話があり、映画が完成しました。「映画になる感覚がなく、聞かれたことに答えただけ。」と語られる沈さん。映画をご覧になり、「(劇中に)自分が韓国で過ごした1年のことが出てきたが、その時に身に着けた技術が役に立ったわけでもなく、この1年が自分にとって何だったのだろう、と思う時があった。ただ、この作品を観て、あの1年が無駄ではなかったのだと思い、空いていたピースがはまった気がし、意味のある時間になった。」と感想を述べられました。

ルーツを朝鮮に持つ沈さん。劇中でもご自身の葛藤など語られていますが、アイデンティティについて、「若い時は『日本か韓国か』を選ぶ時期があったが、今は2つとも自分の中にある。ネガティブな感情はなく、自分は恵まれているなと思う。」「薩摩焼が日韓の友好に繋がれば。」と話されました。

唐津焼は作家が全工程を行うが、薩摩焼は分業制となっている。「韓国での修行時代は今と違った。父(十四代)の時は高度経済成長期で、とにかくたくさん作ってたくさん売る、一つ一つを型にはめて作っていたが、これでは駄目だと思い、自分なりに変えるために、まずはチームを作った。経営は初めてで上手くいかないこともあったが、設備も整えながら、少しずつチームが育っていった。オーケストラで例えると、自分は指揮者もしつつ、和楽器もやったり、コンサートのチケットを売ったりと、なんでもやっている。」とご自身の役割を語られました。

劇中にはお父様である十四代とのお話もあり、お父様のことを「父は戦争を体験し、差別を乗り越え今に繋ぎ、自分が下地を作ってきた自負があった。怒ると全身から朦気(もうき)が噴き出していたかと思うと、涙が出るくらい優しい面もあり、感情の量が多い人だった。」と話されました。

唐津焼と薩摩焼のお話では、「元々唐津焼も薩摩焼もルーツは同じ。ただ、封建制度の中で、土地や風土、当時の領主により形を変え進化していった。唐津焼は、一楽二萩三唐津、というくらいお茶の世界で重要なやきもので、韓国にも似たやきものがある。薩摩焼は島津家の方針に則っているやきもので、茶陶と近いものではない。島津家は1608年に琉球王国への侵攻により首里城を落とし、琉球王国を植民地とした。当時の琉球は中国の属国であったから、朝貢貿易を通じて琉球から薩摩へ中国の文化が入ってきたことで、薩摩焼は中国文化の影響も受けている。」と話されました。また、薩摩焼が華やかなやきものになった経緯については「幕末から明治にかけて薩摩では輸出時代となり、マーケットがヨーロッパやアメリカになったことで、より装飾性が求められた。そこで、絵付けが取り入れられた。私達は島津家の御用やきもの師なので島津家の方針に従っていたが、当時の職人たちは抵抗があったのではないかと思う。」と語られた沈さん。「薩摩焼の絵付けは京都の技術を受け継いでいる。」と驚きの情報も飛び出しました。

島津家からの要望で作陶することについて沈さんは、「自分が作りたいものを作ることも大事だが、誰かに請われて作ることによって得るものは大きく、勉強になることも多い。」と、ご自身のお考えを述べられました。

お客様からは「素晴らしいドキュメンタリー映画」「佐賀の神社で開催された蚤の市で初めて黒薩摩焼を知り、唐津焼に似ていると思った。」「歴史の中で文化のやきものを感じた」といった感想が聞けました。

最後に沈さんから「日本も韓国もやきものを取り巻く環境が変わってきている。今は筆や絵の具、ろくろを作る職人がいなくなり、中国から取り寄せている。(作陶が)やりづらくなっている。十二代の頃(約百数十年前)は、電気・ガス・水道・温度計もない環境だったが、なぜ今よりも優れた仕事ができたのだろう、と考えることが多い、息子のために技術だけではなく、用意できるものは残していきたい」と語られました。

沈さんは、年に1回「日本の次世代リーダー養成塾」で唐津へお越しになっているとのことです。

やきものの里・唐津にも縁のある『ちゃわんやのはなし-四百年の旅人-』は、8月8日(木)まで上映しています。
十五代 沈壽官さん、ご来場のお客様、ご参加いただき誠にありがとうございました。

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